〜阿修羅さまがみてる〜
『 時雨色に染めてみて 』
作:渡辺浩造

 「オハヨー」
 「ごきげんよう」
 「うーす」
 「もーにんっ」
 「ちょいや」
 さまざまな朝の挨拶が澄みきった青空にこだまする。
 甲府の盆地に集う生徒たちが今日も天使のような無垢な笑顔だったり、割りと悪い事思いついちゃった的な顔で、学校名の代わりに『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』と書かれた門をくぐって行く。
 なんとなく青春真っ盛りな心身を包むのは、思い思いにコーディネートされた私服。
 スカートのプリーツってなんだ?白いセーラーカラーがついてるヤツなんか、まずいねぇ。ゆっくり歩く人もいれば、わりとツカツカと歩いていく人もいる。もちろん、遅刻ギリギリだったら、達観している一部の生徒を除いて、全力ダッシュである。
 
 私立星影学園
 
 『自称』卒業生第一号が聖徳太子だというこの学園は、もとは豪族の令嬢、子息のために作られたという、全寮制の学校である。
 山梨県甲州。環境破壊が叫ばれて久しい昨今にあって、未だ緑の多いこの地区で、寮に入れられ、その割に、校則があるんだかないんだかイマイチ解らない自由主義のある意味無法地帯。
 時代は移り変わり、17条だった憲法が(!?)11章103条に増えた今日でさえ、卒業するころには、大抵のことでは驚かない、頑強な精神力が養われる、とういう教育の現場としてどうにも個性的過ぎるスタンスの学校である。
 
 彼──、栗本 早雲(クリモト ソーウン)はそんなカオスな世界に飛び込んだ新入生である。
  

  
『 早雲はお年頃 』


 
 季節はサンサンと太陽の照りつける夏。

 「ふぁぁぁ〜〜〜。」
 生徒たちの喧騒が響く校門を早雲は気だるそうに大きな欠伸をしながら通り過ぎる。新入生も星影学園での生活にも慣れ、各々の生活習慣が身に付き始めた。
 「ふぁぁぁ〜あぁ〜あぁ〜あぁ〜ん。」
 早雲は短めの坊主頭を掻きながら、もう一度大きな欠伸をする。
 彼が何故、ここまで眠そうなのか。これには理由がある。
 彼は夜更かしをしていたのだ。
 …とはいえ、彼の生活習慣に夜更かしの予定は入っていない。昨晩はつい、寝るのが遅くなってしまった。

 昨晩の彼は、日課の筋トレを終え、シャワーを浴び、歯も磨き、布団の中に潜り込んだ。

 だが、ここから未来が狂い始める。

 中々、寝付けない。
 脳裏に浮かんでは消える色々。
 枕元に単行本が置いてあった。
 何気なく手に取った。
 何気なく読み始めた。
 そして、もう止まらなかった。
 1巻を読み終え、2巻に手を伸ばす。横になったままでも、手を伸ばせば本棚に届く…これが、無益な行為に拍車をかける。
 3巻4巻5巻………………。
 読み終わった頃には、夜中の3時を過ぎていた。そして……小さな蛍光灯の光が、ヤケに眩しかった。

 「切りの良い所で止めておけば良かった……………。」
 教室に着き友人に挨拶しながら窓際にある自分の座席に到着。そしてイスに腰掛けると机に突っ伏した。
 ――このままHRまで寝ているのも良い。最近、寝不足だし。授業中に寝てしまうよりはずっと建設的だ――
 などと思いながら早雲が本当にウトウトし始めると、1人の女生徒が教室に入ってきた。
 「お早う、崇子(タカコ)。」
 その名前を聞いた早雲は肩をビクつかせる。頭を擡げていた眠気も吹っ飛んだ。
 「お早う。」
 彼女は微笑みながら、挨拶を返すと自分の席に向かう。
 早雲は少しだけ顔を上げ崇子の座席の方向に視線を合わせる。するとピンクのスカートに手を添えながら、イスに座ろうとする彼女の姿があった。

 彼女の名前は林 崇子(ハヤシ タカコ)
 早雲が寝不足になっている原因は彼女。
 手っ取り早く言うと、早雲が目下、現在進行形で片思いの相手であった。
 
 崇子は鞄の中から教科書を取り出し始めている。肩まで延びた髪がその動きに合わせて揺れ動き、早雲は髪の行き先を目で追っていた。
 いつしか、その髪の動きにつられ、早雲も体を揺らす。遠くから見たら貧乏揺すりに見えなくもない。
 この体の動きに少しだけ気持ち良さを感じる。まるで揺り篭に揺られているような感覚。遠く幼い過去の事ゆえ記憶にないはずだが、何故か懐かしくも感じ、癖になりそうだった。
 崇子の髪は既に動くのを止めている。だが、早雲はトランス状態に陥ったのか、動きを止めない。
 そして、
 ――――…………何、やってんだ!俺!!
 自らの行動と心を叱責する羽目になる早雲。
 早雲が顔を上げ、大きく伸びをして体と心に新しい酸素を送り込む。心が弱まれば体も、それに追従して弱くなってしまう。こういう時こそ心機一転が大切だ。
 早雲はこれでもかというくらい、胸に空気を送りこんでは吐き出す。まるで、自分の弱った気持ちを追い出すように。
 すると、彼女と目が合った。
 早雲の呼吸が止まる。恐らく、崇子も方も止まっていた。
 お互いに身動き1つせずに見詰め合う。
 他の生徒の声が遠くに聞こえ、2人だけしか居ないように感じた。
 その空間に取り残された早雲は焦っている。
 ―――あ、挨拶しなきゃな。
 そうは考えたが、崇子との座席の距離は列で3つほど遠い。ここから、挨拶するのは少し失礼だろう。
 早雲は意を決し、席を立つ。そして、崇子の席へ向かって歩き出した。
 一旦、教壇の前まで出て回り込む事にする。遠回りだが、崇子まで一直線に進んでいく勇気は彼には、まだ無かった。
 握られた手のひらが汗ばんでいる。それでも早雲は一歩、また一歩と宗へと近付いている。
 そんな早雲の行動を崇子は一部始終、眺めていた。彼女の方も軽く緊張しているのか、頬が赤い。
 
 ―――挨拶をする。挨拶をする。挨拶をする………。
 早雲の心はその言葉でいっぱいになっていた。
 あと少し。この席を曲がれば宗の席まで7歩。
 崇子は早雲が近付くと視線を逸らし俯いてしまった。それでも、早雲の歩みは止まることはない。
 崇子の席まで5歩。
 右手を上げる、準備良し。
 掛ける言葉、「おはよう」
 その後のプラン、一切無し。
 崇子の目の前まで来る。後は挨拶を交わすだけ。
 ―――この瞬間に全てを賭ける!
 「おはよう!崇子。」
 「きゃーーー!!」
 崇子の悲鳴が教室に木霊した。
 「ちょっと、失礼ね。挨拶した友人に悲鳴で答えるなんて。」
 「え?!いや、違うの!
  ちょっと、ビックリしちゃって。
  継代のせいじゃなくて、
  むしろ、私のせいっていうか………。」
 しどろもどろに言い訳を始める崇子。
 「ショックだなぁ。」
 そんな崇子の姿を継代はジト目で見ていたかと思えば、一転して笑い出した。
 「冗談よ、気にしてない。」
 「ごめんね、継代。」
 「気にしてないから安心してって、
  おはよう、理佳ぁ。」
 「おはよう、理佳。」
 そのまま、崇子の席は女の園へと変わっていく。
 
 その頃、早雲はというと崇子の席を素通りして、教室の後ろのドアから廊下に出ていた。
 「はぁ〜〜〜〜。」
 深いため息を吐く早雲。
 自慢ではないが早雲は異性が苦手である。中学3年間の青春を部活動に注ぎ込み、引退した後は男友達としか遊ばなかった。
 それが苦手意識を増長させてしまう。
 現在の彼はクラスを問わず、女生徒に対しては体育会系の敬語で話す。
 崇子に対しても最初は敬語を使用していた。
 ただ、同じ部活に所属しているのと、周りの人から「それはオカシイ」との指摘を受けたのもあって、今は辛うじて敬語で話す事はなくなったのだが。
 
 早雲と崇子は共に星影学園柔道部に所属している。部活が同じという事もあり、接点は多少ある。
 2人は星影学園でも珍しく「同じ北海道出身」だった。幼馴染とまではいかないが、中学の頃から柔道をやっていた2人は、大会が行われると必ず顔は合わせており、互いに名前くらいは知っていた。
 ただ……、それだけである。
 顔を合わせたからといっても、話をする訳でもなかった。接点があるとすれば、横を通り過ぎる時に軽い挨拶するくらいのものである。
 当時の早雲にとって、宗は『柔道の強い女生徒』くらいのものだった。
 それ以上でもそれ以下でもない。殆ど、共有する時間を持たない他校の生徒である。
 最後の中体連。早雲は地区予選で敗退し、全道大会には出場する事は叶わなかった。
 その全道大会の結果を新聞で確認した時に48キロ級の決勝戦まで駒を進めた選手の名前に崇子の名前が載っていたのを観た。
 その時も凄いなぁ程度の事しか思わなかった。
 部活を引退してからは会う機会も無くなり、今後も会う事もないだろうと思ってもいた。
 
 ………しかし、星影学園に入学し、自分の教室に行くと崇子がいたのだ。
 
 早雲は驚いた。教室を再確認したくらいに。
 てっきり柔道の強い高校に入学しているものだと思い込んでいた。
 それから、共に柔道部に入部し、現在に至る。
 ………最初は全道大会48キロ級2位の崇子の実力が純粋に気になった。初めての練習で崇子と当たった時、思い切り投げられた。投げられた早雲が気持ちいいと思うほど豪快に。
 そして、彼女の強さに惹かれていった。
 彼女の強さを知ろうと暇さえあれば彼女の動きを観察した。足運び、組み方、投げるタイミング。全てを盗むつもりで観察した。
 ただ、それが柔道以外の発見をさせられる事になる。練習が終わった後の笑顔にドキリとさせられた。熱心に畳を拭く姿に好感を持った。話しかけると顔を赤くしながら俯く姿が可愛く思った。
 教室でも彼女の姿を追ってしまっていた。

 そして、何時しか好きになっていた。
 
 早雲は今の関係に満足している訳ではない。改善しようと自らに誓いを立てた。
 それは、「崇子を投げることが出来たら告白する」というもの。
 そのために少年は今日も青春を走り抜けるのである。
 
 先生の声が教室に響く。
 今は4時限目の終わりの方。あと数分もすれば授業が終了し、待ちに待った昼休みに突入する。
 真剣にノートをとっている者、睡魔と闘っている者、食堂へのスタートダッシュを決めるため、足首を入念にストレッチをしている者。様々な思惑を孕みながら教室に蠢いている。
 そんな空気に先生は気付かないのか、敢えて気付かないようにしているのか、説法ともとれるお話を延々と続けていた。
 
 早雲はというと睡魔と格闘しながら、
 
 ―――………寝たら一本負け………寝たら一本負け………寝たら………。
 
 と心の中で何度も復唱していた。
 たまにシャープペンを手の甲に刺してみる。
 別に彼に自傷癖がある訳ではない。このように身体を刺激する事によって、睡魔の誘惑を断ち切っているのだ。
 「イッ!……………。」
 両手で口を塞いで悲鳴をシャットアウト。
 彼の右手の甲は、いつの間にかシャーペンの跡でいっぱい。まるでイケナイ注射を連続使用した後みたいだ。
 不毛とも思える涙ぐましい行為を1時限目から続けていた。
 窓の外に視線をやり、真っ白な雲を眺める。夏の雲は自由気ままに大空を流れていた。この雲は何処から流れてきたのか。それは早雲にも分からないが、雲を見ながら思うこともある。
 ―――なんか、一句出来そう。
 そんな早雲の視界に、頭がフラフラと揺れている人物が入る。
 その姿を観た早雲は、自分と似たような心境の人もいるんだなぁ、などと思い微笑ましい気持ちになるの感じた。
 その辛さは自分にも分かる。だが、自分にはどうする事も出来ない。だから、心の中で精一杯の声援を送る。
 ………頑張れと。
 しかし、その人物を再確認すると微笑ましさはアッという間に吹き飛んだ。
 
 それは崇子だったである。
 
 危うく「嘘っ?!」と言いそうになるが、何とか我慢出来た。だが、事態は早雲が騒がなかっただけで何も好転してはいない。
 早雲は授業そっちのけで打開策を思案する。
 ―――消しゴムを投げるか?
    いや、距離が有りすぎる。林さんから外れる可能性がある。
    なら、デカイ弾にした方がいいな。
    シャーペンは?
    …………いや、刺さる可能性がある。
    教科書は?
    …………角が当たったら痛いから却下。
    あ!鞄!!
    …………投げる訳にはいかないだろう。
 と、あれこれ考えを巡らせたが良い案が浮かばない。
 結局、心の中で叫ぶ事にした。
 
 ―――頑張れ!!そこで寝たら、一本負けだぞ!!
 と心の中で必死で声援を送る早雲。
 だが、その声は届くはずもなく、右に傾いたと思ったら左に、左に傾き過ぎじゃないのかと思ったら右にと、彼女の頭は揺れ続ける。
 余りの振り子具合を見かねたのか後ろの席に座っている榎本揚子(エノモト ヨウコ)が崇子を起こしにかかった。因みに早雲に敬語オカシイ説を突きつけた人の1人でもある。
 揚子が肩を叩くと、崇子は一瞬ビクつき、振り子運動を止める。
 しかし、数秒後には壊れたメトロノームよろしく、不規則に時を刻み始めた。
 再度、揚子が肩を叩くと、崇子は停止し動き出す。
 
 この一連の流れを何度、繰り返したのか。一向に崇子が正気に戻る様子はない。
 それどころか振り子するスピードが明らかに早くなっている。
 いつしか髪の毛を豪快に振り乱す崇子にクラス中が注目していた。
 もはや、先生の話を聞いている者はいない。
 先生はというと黒板に向かっているので気付いてはない(因みに先生が生徒の方に向かっている時は、タイミング良く振り子運動が止まっていた)
 そこ、かしこから笑い声を堪える者も出始めた。
 起こそうとしている揚子も手で口元を隠し、笑いを堪えていた。目には涙を浮かべている。
 
 ―――林さん、大丈夫か。
    あのまま振り続けたら、酔うぞ。
 
 などと間違った方向に心配しながら早雲は崇子を見守っていると、不意に揚子と目が合った。
 涙を拭きながら揚子は早雲の顔を観察するように見詰めると、何か閃いたのか、その頭の上にはビックリマークの2、3個した。
 そして、ニッコリと微笑みかける。
 その微笑みに早雲は一抹の不安を覚える。
 早雲は揚子と、それほど面識がある訳ではない。
 彼女はいつも笑顔んでいる印象があるが、先程のは小悪魔的なイメージがピッタリだった。
 崇子の行動にハラハラしながら、揚子の微笑にもハラハラ。
 いかに、この男が異性に弱いか丸分かりであろう。
 そんな早雲の心境を知ってか、知らずか、
 いや!明らかに知っててやっているであろう揚子は、おもむろに教科書を丸め始める。
 その先端を崇子の耳元に当て、反対側に自分の口を添えた。
 メガホン代わりなのか、声は余りにも小さく周りの者にも聞こえはしない。だが、確実に何かを話している。
 クラスの注目を一身に集める揚子の行動。
 そんな中、
 「…………………………え?!」
 教室に崇子の声が響き渡った。
 そして、教室には笑い声に包まれる。
 腹を抱える者、机をバンバン叩く者、顔を隠して笑いを堪える者。騒ぎに乗じて、食堂へのスタートダッシュを決めるため『クラウチングスタート』の構えを取る者まで出始める始末。
 だが、崇子は立ち上がると脇目も振らずに早雲を凝視した。
 振り向いた顔は真っ赤である。
 ――――は?俺ッスか?!
 崇子も驚いているが、見られている早雲の方も驚きである。
 交錯する視線と視線。二人とも金縛りにでもあったように動かない。
 「どうした〜?」
 先生の問い掛けが合図に二人は動き出す。
 「何だ?林、質問かぁ?」
 先生にはそんな二人(先生から見ると崇子、一人なのだが)分かるはずもない。
 明らかに慌てている崇子は右に左にと視線と泳がせる。その姿は先程のメトロノームの縮小版のようだ。
 「いえ、あの、その…………何でもありません。」
 赤い顔を益々、赤くして小さくなる崇子。
 その時、チャイムが鳴り、授業の終わりを告げる。
 「急に立ち上がるなよ〜。
  じゃあ、今日は、ここまでって、既に居ない奴もいるなぁ。」
 という言葉を残し、先生は教室を出て行く。
 崇子は「はぁ〜〜〜。」と大きく溜息を漏らし席に着いた。力が抜けたのか、肩をダランと下げ、机の上に突っ伏している。
 そんな崇子に数人の女生徒が笑いながら駆け寄る。昼食のお誘いでもしているのだろう。
 一方、早雲はというと、これまた、机の上に突っ伏していた。
 ――――勘弁してよ〜〜。
 
 時は、生徒が待ちに待った昼休み。
 食堂に行ったり、購買部に行ったりと生徒達は楽しくも忙しい時間を過ごしている。
 教室の至るところから、生徒達の笑い声が聞こえた。
 
 早雲はというと、友人から誘いを丁重に断り、今だに自分の席から動けずにいた。
 4時限目の終了間近の騒動で人知れず消耗していたのだ。
 ――――このまま、昼休みを寝て過ごそうかな。
 とまで考えたぐらいだった。
 とはいえ、心の中で栄養が不足と警報が鳴る。
 昼食抜きで部活は辛過ぎる。
 早雲はなけなしの体力を動員して、教室を後にした。
 
 戦場に神は存在しない。
 生き延びる者と死にゆく者、勝者と敗者を分かつのは、神の仕業ではなく
 1個人の意志が敵対する者の意志を駆逐・殲滅した結果である。
 「おばちゃん!!サンドイッチ、1つ!!!」
 「コロッケパン、ゲットだぜーーー!!!!」
 「それは僕んだっーーーー!!!」
 
 昼休みの購買部は、まさに戦場だった。
 ここには男も女も、老いも若きもない。あるのは只、栄光を掴んだ勝者か全てを失った敗者がいるだけである。少しでも怯んだ者に勝利はない。確固たる意志を持った者だけに、勝利者になることが許される。人が人を踏みにじり、その屍を乗り越え、己の欲望が満たされるまで、前に進み続ける。
 そんな現世の地獄を観ながら、早雲はゲンナリする。
 この中に飛び込まなければ、彼は昼食にあり付けない。
 しかし…………。
 
 「おい!お前、何個買ってんだよ!!つーか、買いながら、食うな!!」
 「ウッハイ!!(ごっくん)
  ………僕は、これぐらい食べないとモタナイんだよ!!」
 「そんな小さい体のどこに入るんだって、グハッ!!」
 
 ――――あ、誰か殴られた。
     
 地獄絵図、虎の穴。地上に舞い降りた地下闘技場。
 早雲の中で、そんな言葉が浮かんでは消えていく。
 そんな早雲の目に1人の女生徒の姿が目に入る。
 人だかりの最後列をウロウロして、中に入ろうとしているようだ。 
 これでは、購買部で生き残る事は出来ない。
 そう思った早雲は女生徒の声をかけた。
 「林さん」
 「え?!あ、栗本君。」
 崇子は少し驚いた様子で振り向いた。
 そんな彼女の反応も可愛く思いながら、早雲は崇子に問いかける。
 「どうしたの?今日は購買組?」
 「うん、食堂に行ったら人が凄くて、入れなかったの。」
 「それで、こっちに来たのか。」
 「うん、でも………。」
 2人で現状を確認する。
 購買部は今だに本能むき出しの生徒で溢れて大波となっている。押し合い、へし合い、奪い合う。
 「………あぁ、これじゃあな。」
 「中々、中に入れなくて。」
 「そうだよな。」
 前から見たら、更に凄い光景になっている事は想像するに難しくない。
 これを購買部のおばちゃんはよくも1人で捌いてるなと感心する。
 さぞや、肝っ玉の太い御仁だろう。
 そんな事を思っていると、「今日はお昼、抜きかな。」と言う、崇子の独り言が聞こえてきた。
 (むぅ………。それは辛いな。林さんにも、そんな思いをして欲しくはない。)
 ここは、崇子に行かせられない。いや、行きたくても行けない状態だったのだが。
 そこで早雲はある提案を崇子に持ちかけた。
 「なら、俺が2人分、買ってくるよ。」
 「え?」
 聞き逃したのか。それとも反射的に言ってしまったのか、キョトンとしている崇子に早雲は言葉を続けた。
 「だから、俺が林さんの分も買ってくるって。」
 「そ、そんな悪いよ。」
 「気にしない、気にしない。
  元々、買いに行く予定だったし。」
 「でも………。」
 尚も食い下がる崇子。
 こうしている間にも、残り少ないであろう食料は侵略者に奪われていく。
 そこで早雲はここは1つ崇子を納得できる理由をつくってあげることにした。
 「あ〜、なら。
  自販機で牛乳を買ってきてくれないか?
  それでおあいこって事で。」
 「………え、うん。
  じゃあ、お願いするね。」
 交換条件に崇子は納得したのか、笑顔で了承した。
 「了解。
  何か希望はあるかな?一応、聞いておきたい。」
 「…………あの、…………その。」
 「…………うん。」
 「メ…………。」
 「め?」
 「…………メロンパンか、チョココロネ。」
 「メロンパンか、チョココロネね。」
 「やっぱり、変かな。」
 「いや、チョイスが可愛いなと………。」
 素直な本音を言ってしまう早雲。
 「え?!」
 それを聞いた崇子も素直に顔を赤くして俯いてしまう。
 「あ、いや!深い意味がある訳じゃなくて。」
 「…………………(真っ赤)」
 「え〜〜っと…………。」
 「…………………(真っ赤)」
 「はい!焼きそばパン!完売!!!」
 「「ハッ!!」」
 おばちゃんの威勢の良い声に我に返る2人は慌て始めた。ちょっとだけ良い雰囲気だっただけに少しだけ後ろ髪を引かれたが、このまま、何か行動を起こせる訳もない。
 早雲は、動揺を抑える事も出来ず、口早に話しかける。
 「い、いそいで行ってくる!!」
 「う、うん!無理しないでね!」
 
 早雲は崇子に背を向けると、購買部に群がる群衆を見据える。深い呼吸をしては、先ほどの動揺を抑える。
 その顔は1人の戦士になり始めた。
 心に必勝を誓い、歩き出す。そして最後列に到着すると、人の壁の楔を打ち込…………。
 「どけーーーー!!」
 …………もうとしたが、後ろからの突然の圧力に押され始めた。
 後ろを見ると、巨漢が早雲を盾にする形で人の壁を切り裂いている。
 ――――この人、確か相撲部のーーー!!!
 早雲を襲う強力な衝撃。顔、鳩尾、腹部、体のありとあらゆる部分が悲鳴を上げた。
 「どすこーーーーい!!!!!」
 後ろの相撲部は早雲の事は気にした様子はない。というよりも、気付いていない。どうやら、今の彼には目の前の食料を手にする事以外、頭にないようだ。
 「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!」
 早雲は意識が飛びそうになっては、痛みで無理やり叩き起こされるという拷問にも似た、いや、拷問を受ける。
 ただ、怪我の功名(?)か。電車道を喰らい続けた結果、土俵際(購買部の最前列)にまで辿り着いたのである。
 「おおお、おばちゃ〜〜ん。
  メロンパンとコロッケパン。」
 「はいよ!!」
 即座に差し出される2つのパン。代金を払い、ゾンビのように移動を開始する早雲。
 このような歩く屍を眼前にしても、おばちゃんに迷いは無し!力士相手にガプリ4つ組みで相手をしていた。
 「デカイと邪魔だから、早く、あっちへお行き!!」
 
 「た、ただいま〜〜っと。」
 「だ、大丈夫?!」
 ボロボロの早雲を目にした崇子は驚き、瞳を大きくしている。
 「だ、大丈夫〜〜〜。」
  はい、メロ〜〜〜ンパ〜〜〜ン。」
 「あ、ありがとう。」
 戸惑いながらもパンを受け取る崇子。
 そんな、端から見ると仲睦まじい光景を血の涙を流しながら見つめる力士が1人。
 「あいつぅぅぅぅぅ!!
  俺の心のオアシス、林さんと、さも楽しげに………。」
 
 ――――彼女と初めて話したのは、入学して間もない頃の事だった。
     早く幕下に昇進したい自分は念入りに四股を踏みながら、汗を流していた。
     流した汗の分だけ夢に近づく。尊敬する親方(顧問の事)の口癖だ。
     自分は、その言葉を胸に刻み込み、唯ひたすらに四股を踏み続けた。
     そんな時、不意に林さんが傍に居たのだ。
     彼女は汗をかいた笑顔を自分に向けて、こう言った。
     「窓、開けてもいいですか?」
     自分はこう答えた。
     「どうぞ。」
 
     …………そして、自分は恋に落ちた。
     だって、異性と話したの初めてだったし。
     それを、それを!
     それをぉぉぉぉぉぉ!!!
 
 「そこの馬の骨ぇぇぇぇ!!勝負ぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
 大声を張り上げ、戦闘態勢をとる相撲部。その背後には伝説の横綱「雷電」が見える。
 「返せぇぇぇぇ!俺のオアシスをぉぉぉぉ!!返せぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
 「ちょっ!!待て、何言ってんだ?!」
 「問答無用!!」    
 相撲部は早雲に向かって一直線に突進する。何が起こったのか分からない早雲は慌てるだけだ。
 そんな早雲だったが突然、横からの衝撃で飛ばされる。見ると、先ほど自分が立っていた場所に崇子が立っていた。
 怒りで我を失っている相撲部は崇子が目の前にいる事さえ分かっていないのか、突進を緩める事はなかった。
 更に焦る早雲。
 動こうにも購買部で受けた負傷によってか、体の自由が効かない。
 もはや、叫ぶしかなかった。
 「避けろ!林さんって、えぇぇぇ!!」
 「せいっ!」
 
 目の前の光景に目を疑う。恐らく100キロは超えるであろう相撲部が、崇子の技を喰らい宙を舞っている。まるでスローモーションのように、ゆっくりとしていて、観ていた早雲はそれから目が離せなかった。
 ズシーーンという轟音と共に、相撲部に巨体が地面に沈む。
 静まる世界。周りにいいた群集も静まり返っていた。
 「栗本君、大丈夫?」
 「……………うん。」
 呆然としている早雲に崇子は涼しい顔で迎える。そして、右手を差し出した。
 今、一力士を投げ飛ばした人物とは思えない笑顔。
 早雲はその手を握り締めると、重力に逆らう力によって立ち上がる。
 が、呆然としていた早雲は、思いがけない力の強さに対抗することを出来なかった。
 その力に導かれるように、崇子に向かって倒れこむ。
 「うわっ!!」
 「きゃっ!!」
 2人の声が重なり、そのまま、崇子も倒れこむ。崇子は崇子で油断していたようだった。
 「……………。」
 「……………。」
 お互いに何が起きたのか分からない。只、互いの体温が感じる距離にいるという事だけは分かった。
 横を向けば、直ぐ傍にある崇子の顔。崇子の瞳の中に自分が映っているのが分かるくらいの至近距離。
 何秒くらい、そうしていたのだろう。
 みるみるうちに、崇子の顔が赤くなり、涙目になっていく。
 そして、
 「きゃーーーーーーーーーっ!!!!!」
 悲鳴と共に、早雲は宙を舞った。
 重力に反した投げ技に、感嘆の言葉を惜しみなく贈る早雲。
 受身も取れずに惨めに床に叩きつけられた。
 崇子はというと、真っ赤な顔を両手で隠し全力で走り去っている。
 そんな光景を観ながら、早雲は本当に誓いは果たせるのか、不安に襲われるのであった。
 
  

『 早雲、悪戦苦闘 』

 
 
 本日の授業が終わり早雲は心を入れ替え、勇んで格技場に向かう。
 星影学園の格技場は柔道部、剣道部は勿論のこと相撲部、空手部、プロレス同好会、少林寺拳法同好会、格闘技愛好会が主に使用していた。それぞれ、部室が与えられそこに陣取っている。
 その広さは相当なもので東京ドームの半分くらいの大きさはあるだろう。早雲も余りの広さに、柔道部の部室が何処にあるか迷ったくらいだった。
 
 今日こそは、と思い2週間が経つがその誓いに些かの曇りもない。
 格技場の鍵を受け取りに職員室に向かうと、そこには崇子の姿があった。その姿を見ただけでドキリと早雲の胸は高鳴るの感じる。
 同じ部である。鍵の保管場所が1つしかなければ鉢合わせするのも当然だろう。だが、彼は予想もしていなかったらしく先制パンチを食らったようだった。
 崇子は既に鍵は受け取ったらしく、早雲の方に向かってくる。そして、5,6歩、歩いた辺りで早雲の存在に気が付いた。彼女も予想だにしていなかったのか目を大きく開けて驚いている。
 そして、頬を赤く染めて俯いてしまった。
 早雲はそんな宗を可愛く思う反面、昼休みの件もあり、掛ける言葉が出てこない。出てこないが故に結局、
 「か、鍵は貰ってくれたか?」
 状況の確認で終わってしまう。
 「うん。」
 俯いたまま答える崇子。
 「そっか、悪いな。」
 「ううん、1年生の仕事だから。」
 「そっか、そうだよな。…………じゃあ、行くか。」
 崇子は目を合わせずに首肯する。それを見届けた早雲は歩き出した。
 「……………。」
 「……………。」
 完全なる沈黙。気まずい空気が2人の間に流れる。焦る早雲。その焦りが移ったのか崇子も落ち着かない様子だ。
 「…………………。」
 「…………………。」
 追い詰められ始めた早雲はパニくりながらも必死で考える。
 危ないところを助けたとはいえ、嫁入り前の女の子を抱きしめてしまったのだ。
 彼女に与えた衝撃たるや、如何ほどのものか想像も出来ない。
 ――――昼休みの事、謝らなきゃ。
     でも、なんて言えばいいんだ?
     「さっきは抱きしめちゃって、ごめん。」
     「女の子って、体って柔らかいだな。」
     「いい香りがした。」
     って、おい!謝ってないじゃん!!
 心の中で1人、突っ込みを入れる早雲。
 結局、考え抜いた挙句、「さっきは、ごめん!!」に落ち着くのであった。
 そして、早雲は意を決し口を開く。
 
 「………………あの!」
 「………………あの。」
 同時だった。立ち止まる2人。更に気まずい空気が流れる。
 「あのな、林さん…………。」
 「あの、栗本君……………。」
 「林さんからどうぞ。」
 「栗本君からどうぞ。」
 掛けようとした言葉が悉くかぶる。
 「……………………………………。」
 「……………………………………。」
 再び訪れる沈黙。そして、図らずも2人は同時に歩き出す。
 ――――どうすんべ?!
 困り果てる早雲。
 このままだと目的地である格技場に到着してしまう。そうなれば、他の部員がいるので話し掛け辛くなる。彼女からしても人前で謝られては困らせてしまう事にもなるだろう。
 チャンスは今しかないのだが、先ほどのランデブーを思い起こすと中々、勇気が持てない。
 複雑な迷宮に入り込んだ早雲に意外なところから救いの手が差し出された。
 「あの、ごめんなさい!」
 それは崇子であった。
 「え?」
 自分が謝るべき対象からの突然の謝罪に早雲。
 「昼休みの件なんだけど。」
 「うん。」
 「本当は直ぐにお礼を言いたかったのに、言い出せなくて。」
 「いや、あれは俺が悪いし。」
 「ううん。栗本君は助けてくれたんだから、悪くないよ。」
 「…………。」
 「ごめんなさい。本当に有難う。」
 「いや、俺も役得だったし。」
 「え?!」
 「いや!なんでもない!!!」
 「うん…………。」
 それっきり2人とも話せなかった。お互いに昼休みの光景を思い出したのだろう。赤い顔をしながら視線を合わせられないでいる。
 早雲は顔を掻きながら、崇子は俯きながら、2人は無言で歩き出した。
 ……先ほどとは違う雰囲気で。
 
 「ザスッ!!!!」
 「失礼します。」
 格技場に入り口を開け入る手前で一礼する早雲と崇子。
 
 ここで柔道部豆知識!『ザス』とは挨拶と同義語と考えてもいい。主に柔道部が伝統的に使用している。目上の者に対して使用する単語であり、『お早うございます』『こんにちわ』『失礼します』とその意味合いは多種に亘り、格技場に入る時の挨拶にも使用出来る優れた言葉だ。対義語として『シタ』がある。意味は『お疲れ様でした』『さようなら』『失礼しました』と相当する。柔道部豆知識でした。
 
 中々、格技場に足を踏み入れない二人。いや、踏み入れる事が出来ないと言った方が妥当だろう。
 扉を開ければ、そこは正に灼熱だった。体育館とは違い、滅多に使用される事のない格技場は密閉空間である。そこには夏の太陽が照りつけた熱が溜まりに溜まり、唯一の抜け穴(入り口)に向かって流れ出す。入り口に立っているだけで、汗が止まらなくなるのだ。
 「なんか、蜃気楼が観えるッス。」
 早雲は心の空っぽな感想を口にする。
 暑さが苦手な道産子な2人。甲府の夏に慣れてきたがこの暑さだけは中々慣れるものではない。
 だが、何時までも突っ立っていても状況は変わらない。
 この状況を打破する方法は唯一つ!
 格技場の全ての窓を開放し、篭った熱の逃げる速度を速めるより他にない。
 「行くか。」
 「…………うん。」
 2人は意を決し早雲から格技場の飛び込んだ。崇子もそれに続く。ダッシュで格技場の窓という窓を開け放っていく2人。1つ開けては、また次の窓に取り掛かる。
 開ければ開ける程、中に居る2人にも涼しい風が出向けてくれるのだ。外も暑いが開ける開けないでは、やはり快適差が格段に違う。
 しかし、広い格技場。2人で頑張っても中々、捗らない。悪戦苦闘しているうちに他の1年生達も参戦。
 まだ髷を結う事が許されていない相撲部1年生が参戦した時は室温が軽く上がったが、どうにか終わらせた(約一力士のみ、崇子の姿を観ては震えていたが。)
 「お、終わったぁ。」
 「うん。」
 その場に座り込む早雲と崇子。
 「この暑さには全然、慣れないね。」
 「あぁ。つーか、慣れる気がしない。」
 「うん。」
 先程の空気を引きずっているのか、顔を見合わせて苦笑いする。
 「ヨシ!!
  今日も頑張るとしますか。」
 早雲は勢い良く立ち上がる。そんな彼に続いて崇子もスカートを払いながら立ち上がる。
 「栗本君、練習好きだね。」
 「ん?そうか?」
 「うん。
  最近は特に熱が入ってる。」
 「それは…………。」
 
 「林さんを投げる事が出来た時、告白するんだ。」
 とは言えない。
 
 「…………えーーーっと。」
 回答に窮する早雲。
 こんな事、他の人には話せない。それでなくとも、告白したい相手である。
 ………言える訳がない。
 その当人は自分の話のデンジャラスさに気付いてはいない。
 早雲にとっては眩しく見える微笑みを浮かべてくる。
 その光景に胸が高鳴る
 自分の顔を見られていると今の心境を悟られるのではないかと心配になる。
 心配になるから早雲は顔を背けた。
 その行為が崇子の顔に影を落とすとは気付かずに。
 
 「…………し、新人戦も近いしな。」
 「………………う、うん。」
 「お互いに頑張ろうぜ。」
 早雲はそんな崇子を笑顔で激励する。
 「うん、頑張ろうね。」
 だから、崇子も笑顔で今出来る精一杯の笑顔で答える。
 汗だくの1年生たちはそれぞれの部活のスペースに戻り着替えを始める。
 こうして、今日も早雲の挑戦が始まる。
 

 
『 早雲の戦い 』

 
 星影学園柔道部は男子8名、女子4名から構成されている。
 全道大会2位であった崇子の実力は新入生の中でも頭一つ抜きん出ている。今年の期待のホープだ。高校進学時、北海道の名門私立高校から推薦の話もあったらしいが、彼女はその話を断った。将来、柔道を生業にするつもりはないらしい。
 片や、早雲の実力は下の上くらい。中学時代は個人戦最高成績地区予選3位。小学生の頃から柔道をやっていた崇子に対し中学から始めた早雲は実力的にも経験的にも崇子の2、3個下だ。高校進学時、北海道の名門私立高校から推薦を受けようとしたが断られた。そして、誰も知り合いの居ない地に行きたくなり星影学園に入学した経緯がある。因みに、早雲は中学の終わり頃に初段を取得したので公式戦黒帯デビゥーはまだだった。
 準備運動の後に寝技、打ち込み(立ち技の反復練習の事)そして、運命の乱取り(立ち技の実戦練習の事)に突入する。
 星影学園柔道部の乱取りは二列に並んで相手を決める。4分間で1区切りとし終わったら1つずつ右にずれ相手を代えていく。それを10回繰り返すのだ。
 「オッシャーーーーース!!!」
 早雲の怒号が熱気に蠢く格技場に木霊する。早雲は正直な話、立ち技より寝技の方が得意である。腰が軽いのか、技を掛けられたら大概、投げられる。故に立ち技は動き続け、技を出し続け、相手に技を出す暇を与えないのだ。早雲のスタミナはそれが実行出来そうなほど星影学園柔道部では群を抜いており、投げられ易いという事で受身の上手さも群を抜いていた。
 ………ただ、昼間の事は忘れて欲しい。あれは、崇子の見事な投げ技に心奪われたのだ。

 電光掲示板が1本目の終了の合図を鳴らす。
 「シタァ!!!」
 先輩に一礼をして右にずれていく早雲。そして、20秒のインターバルの後に2本目の合図が鳴る。
 
 早雲、1本目の成績。
 技を掛けられた回数、5回。投げられた回数、5回。
 技を掛けた回数、17回。転ばせた回数、2回。
 
 2本目の成績。
 技を掛けられた回数、2回。投げられた回数、1回。
 技を掛けた回数、20回。転ばせた回数、5回。
 
 3本の成績。
 技を掛けられた回数、15回。投げられた回数、15回。
 技を掛けた回数、10回。転ばせた回数、0回。
 
 彼の立ち技のセンスの無さが浮き彫りになるような散々な成績。しかし、彼は落ち込んではいられない。
 次の相手はあの、崇子である。
 気合を入れ直して崇子に対峙する早雲。彼女の方も大粒な汗を垂らしながら、細い眉毛を斜めにし、いつもとは別人のような表情で睨んでくる。
 それでなくては倒し甲斐が無い。心の中で不敵な笑いを浮かべ一礼する気焔万丈な早雲。開始の合図と共に崇子に突貫していった。
 
 4本目の成績。
 技を掛けられた回数、11回。投げられた回数、11回。
 技を掛けた回数、27回。転ばせた回数、0回。
 
 駄目だった。
 それでなくては倒し甲斐が無い!!
 柔道をやっている時の彼は途轍もなく前向きだ。
 ――――まだ、チャンスはある。この次で!この次で必ず決める!!
 奇しくもこの日は並び順から最後の10本目に崇子と当たるのだ。技量で負けても体力では勝っている。如何な崇子であろうと10本目ともなれば動きも鈍いはず。そこを衝ければ必ずや。
 そう信じる早雲。だが、彼は模範的な柔道バカである。10本目までに体力の温存をしようとする考えは頭を過ぎらない。結局、彼の動きも10本目には数段、落ちるのは火を見るより明らかだ。
 全身全霊で早雲は9本目まで経過していく。乱取りというものは投げる側より投げられる側の方が体力の消耗が遥かに高い。しかも、彼は自分の戦闘スタイルから動きっぱなしである。36分間の稽古の中で彼の体力は確実に削られていった。
 そして、勝負の10本目。
 崇子も肩で大きく呼吸しているが、それは早雲も同じだった。それ所か決め技のない早雲の方が明らかに分が悪い。
 格技場に鳴り響く開始の合図。
 ここまで来たら、根性のみ!!
 大きく深呼吸した早雲は崇子を軸に円運動を開始する。それはまるで崇子を地球とするならば、早雲は自転しない月のような動きだ。早雲は崇子の周回軌道上を回りながら様子を伺い徐徐に間合いを詰めていく。その距離約2メートルのなろうかという所で早雲は円運動を止め、一気に崇子との距離を縮め始めた。先手必勝とばかりに素早く左手で崇子の右襟を掴み、そのまま腕を伸ばした。こうしておけば、崇子より身体的に大きい早雲は懐の入られることが少なくなる。それは崇子の動きを牽制するためにのものだ。そして右手で崇子の左袖を掴かむ。
 ここで、また、柔道豆知識!!早雲は組み手は左手で相手の襟、右手で相手の袖を掴む『左組み』。対する崇子は逆に右手で相手の襟を、左手で相手の袖を掴む『右組み』と言う。この2つの組み手が試合をすると、俗に言う『喧嘩四つ』の状態になり、お互いに技が掛けにくく泥試合になる事が多いのである。柔道豆知識でした!!
 現時点で崇子はまだ早雲の右袖しか掴めておらず自分の組み手になれてない。圧倒的に早雲の方が有利である。しかし、崇子は動揺する様子もなくジッと何かを待っているかのように動かない。そんな彼女を素直に感服しつつも早雲は左腕を折り曲げ、自分の胸元に崇子を引き寄せた。早雲は体勢はバッチリと身体を崇子ごと反転する。そして崇子が出すであろう左足を自らの左足に引っ掛ける。俗に言う『体落とし』という技だ。が、崇子の左足が予想を超えて早く出てしまい跨れてしまった。
 失敗。それ所か、技を掛け終わった瞬間に襟を掴まれ投げられる早雲。直ぐに立ち上がり、その後も必死で様々な技を繰り出すが悉くかわされ宙を舞った。
 まだ時間はある。
 そう思いながらも、早雲は体が動かなくなるのを感じてしまう。
 このまま行けば、今日も誓いは果たせない。
 焦り始めた早雲の動きが散漫になる。その隙を崇子は見逃さなかった。
 残り時間、50秒という所で綺麗に投げ飛ばされる早雲。疲れからか投げた崇子も勢いと止められずに1回転してしまう。
 上の乗っかる崇子の重さを感じる。
 「……………大丈夫?」
 早雲の顔色が気になったのか崇子が起き上がりながら聞いてきた。
 「え?あ、うん。」
 彼女の気遣いに感謝しながらも早雲は悔しさは止まらない。
 「…………何で、投げられないのかな。」
 起き上がった早雲は服装を正しながら、そんな事を口走る。
 そんな早雲を観た崇子は肩で息をしながらも少し微笑んでいた。
 不謹慎とも思える行為だったが、悔しがる早雲を観た彼女はついそうしてしまったのだ。
 「……………多分、栗本君は1回の技で投げようとしてるから。」
 「え?」
 思いがけない崇子の言葉に、ハッとする早雲。
 「色んな技を、途切れないように掛けてみたらどうかな?」
 「途切れないように……………。」
 残り時間30秒。
 改めて向かい合う両者。
 先に技が掛けられる状態になった早雲は崇子の言葉を心の中で反芻する。
 自分の持てる技全てを崇子にぶつける。
 残り時間25秒。
 自然と組み合う両者。ここまで来たら、最早、駆け引きはいらない。
 早雲は左足で崇子の右足を払う。
 
 残り時間22秒。
 足を払った勢いそのままに背負おうと崇子に背を向け反転する早雲。両の膝を曲げ一気にしゃがみ込む。
 だが、崇子は上半身を逸らして早雲の力の流れを遮断する。
 
 残り時間17秒。
 自らの前方に投げる事を断念した早雲は自分の勢いを崇子の力の流れに乗せるため、しゃがんだまま崇子の方向に向こうとする。すると自分の右肩越しに崇子の右足が見えた。
 今、二人を上空から見下ろせば丁度、T字に見える。
 崇子の足を見えた瞬間、早雲は咄嗟に右腕が動く。崇子は再度、早雲の流れを遮断しようと全体重を彼に預け、その狙いを読んだとばかりに右足を後ろに下げる。
 しかし、今回は早雲の動きが先んじていた。崇子が足を下げるのより早く早雲の右手が彼女を捉えたのだ。
 
 残り時間15秒。
 崇子は直ぐさま早雲の背後に回りこもうとするが、早雲が完全に足を捕らえているので思うようにいかない。
 この体勢では早雲の力を受け流す事は難しい。
 初めて、彼女の顔に焦りが見えた。
 「ウオーーーー!!」
 気勢一発。
 怒号と共に早雲は折り曲げられている両の足に力を流し込む。
 早雲にとっても不十分な体勢である。
 倒せるかどうかは五分五分といったところか。だが、時間的にも体力的にも限界だ。
 ここが最後の正念場である。
 残っている力の全てを左足に乗せ、早雲は自分の体重ごと崇子にぶつける。
 だが、崇子も残っている左足に力を込め、早雲を迎撃する。
 
 残り時間12秒。
 片足でも崇子は倒れない。絶妙な体捌きで辛うじてだが早雲の圧力を受け流す。
 早雲の左足が崇子の動きに付いて行けていない。
 このままいけば、逃げられる。
 早雲も崇子も長い経験上、今の状況を理解した。
 今日も駄目なのか。
 一瞬、早雲の心にそんな感情が過ぎる。
 だが、
 ――――まだだ!
     まだ終わってない!
     今日こそ絶対に!
     絶対に誓いを果たす!!
 早雲の左腕が無意識に崇子の右足を掴む。そのまま体が回り、両手が崇子の両足を掴んだ。
 形振り構わず、早雲は膝を伸ばす。
 これが最後。
 力を貯められる関節の全てを解放した。
 「倒れろーーーー!!」
 足の自由を完全に奪われた崇子に新たな力が加えられた。
 これ以上は後ろへ下がれない。
 崇子の背中が畳に接近する。
 
 残り時間10秒。
 2人はそのまま倒れ込んだ。
 動かなく両者。聞こえるのは2人の呼吸。
 今までとは真逆に早雲が崇子の上になっている。
 そして、電光掲示板から終了の合図が鳴り響いた。

 早雲は動けなかった。
 両足が少し震えている。最後の最後で全力で技を出し続けた結果である。心が充実感でいっぱいだった。
 この2週間、必死でやってきたが散々な結果だった。向かっていっては投げれて、投げれては、また向かっていく。それの繰り返し。
 ………そして、誓いを果たせた。
 その事実が早雲の胸を熱くする。少し泣きそうでもあった。
 「…………ありがとな、林さん。」
 自然に出てきた感謝の言葉。心から素直に言えたような気がする。
 「…………ううん、気にしないでね。」
 少しだけ顔を上げた宗は早雲を見ながら笑顔で答える。彼女も全力で受けて立った。投げられた事への無念はあっても後悔はない。
 だが、何かに気が付いたのか、顔を真っ赤にしながら視線を顔ごと逸らした。
 「…………それでね。
  …………あの…………その…………。」
 「何だ?」
 両足を軽くモジモジしながら何時もよりタメの長い崇子に、高揚感さえ漂う早雲は自然と笑顔で問う。
 「…………………そ、そろそろ、除けてもらえると嬉しい。」
 「………………………あ。」
 視線を上げた早雲が観たものは手を組んで祈るように胸の前にあてている崇子の姿。そんな彼女はギュッと両目を閉じて真っ赤になっている。
 早雲は今の自分達の格好を見渡す。
 それは自分が崇子の下半身にしがみ付いているような状態だった。
 ボン!!と音がするかのように顔を赤くする早雲。
 「ご、ごめん!!」
 全ての気持ちが吹っ飛んだ茹蛸な早雲は飛び起きるのだった。

 
 
『 2人の気持ち 』

 
 
 寮までの帰り道。外灯に照らされながら2人は付かず離れずの距離を歩き続ける。
 2人を包むのは風。季節は夏。夜とはいえ気温は高く夜風は何よりも心地よかった。
 …………昨日までは。
 早雲は緊張していた。風を感じる余裕もないくらいに。話があると残ってもらっておきながら、無言のうちに寮までの別れ道まで半ばという所まで来てしまったのである。
 崇子はというと、少し俯きながら歩いているので表情までは分からなかった。
 「あの、さ。もう直ぐ新人戦だな。」
 「…………う、うん。」
 「覚えてるか?中学の新人戦。」
 「え?」
 焦る早雲は口を開く。何かを話さなければいけない。そんな衝動に駆られて口から出てきたのは初めて出会った時の事だった。
 「中2の時の新人戦。」
 「うん。覚えてる、けど………。」
 「あの時、林さんさ。個人戦で優勝したよな。」
 「…………うん。」
 「その時は名前しか知らなかった。」
 「中学が違ったから、仕方ないよ。」
 「そうだな、そうだよな。
 3年の中体連だよな?全道大会で準優勝したの。」
 「うん、あの時は頑張った。」
 「俺は全道大会に出てないから、結果は新聞で知ったんだ。」
 「栗本君、地区予選で…………3位、だったもんね。」
 「あんまり、思い出したくないって、よく、覚えてるな。」
 「え?!………あの、相手がうちの生徒だったから。」
 「…………そういや、そうだった。」
 崇子は発言が申し訳ないと思ったのか小さくなっている。そんな崇子を早雲は素直に可愛いと思う。
 「…………そうじゃなくて!
  いや!そうなんだけど!!」
 「………え!?」
 「いや!こっちの話!!」
 「う、うん。」
 「話したいのはこんな事じゃなくて、その………。」
 「……………その?」
 「その………最初は、林さんの強さが気になってた。」
 「うん。」
 「で、練習中とか動きを観て研究してた。」
 「うん。」
 「そしたら、いつの間にか教室でも何してだろうとか気になってて。」
 「う、うん」
 「そしたら、林さんを見てたらドキドキして…………。」
 「ど、ドキドキして…………。」
 「…………す!」
 「す?」
 「す、好きになってました!!」
 「す?!」
 「俺と付き合って下さい!!」
 見詰め合う瞳と瞳。崇子は両手を口にあてて動かない。早雲も動けない。二人を包む静寂。
 外灯に照らし出され、顔が赤くなっているのが、はっきりと分かる崇子は俯き始めた。
 そして、静かに口を開く。
 「あの…………、私も覚えてる事があるの。」
 「え?」
 「私が柔道を続ける切っ掛けをくれた人の事。」
 風に靡いた髪を押さえて崇子は続ける。
 「いつも元気イッパイで、その人が出てくると大きな声が聞こえるから…………直ぐに分かった。」
 思いは過去へ飛んでいるのだろう。崇子は両目を閉じて話を続ける。
 「…………最後の中体連の個人戦、その人は3位の終わって泣いてた。
  この人は本当に柔道が好きなんだって感じて。
  …………私はどうなんだろうって、思ったの。」
 普段は口数の少ない崇子が必死で話している。
 「考えて、分かったの。
  私も柔道が好きだったんだって。
  ……………本当は、中学で辞めるつもりだったのに。」
 その行為は早雲に言葉を発することを許さない。
 「そしたら、星影学園にその人も入学してて…………。」
  柔道部に入部してて…………。
  やっぱり、元気イッパイで…………。」
 泣いているような崇子の告白。顔を赤くしながら、俯きながら、崇子は言葉を紡いでいく。
 「………………いつの間にか、気になってた。
  …………でも、話しかけられなくて。
  …………目も合わせられなくて…………。」
 
 ………辛かった。
 
 この言葉は早雲に聞こえたのか。
 最後の方は消え去りそうな程、小さな声だった。
 崇子はそれ以降、言葉を続けられない。小さな肩を震わせて、立ち尽くしていた。
 先程とは違う空気が2人を包む。同じ静寂だが、確かに違うものを早雲は感じていた。
 早雲は1歩、また1歩と崇子へと近づいていく。
 「林さん。」
 名前を呼ばれた崇子は顔を上げる。その瞳の横には薄っすらと涙が浮かんでいた。
 本当に頑張ってくれた。
 その行為が早雲の胸を熱くする。
 そして、もう1度、自らの思いを打ち明ける。
 
 「林さん、好きです。
  俺と付き合って下さい。」
 
 静かに。だが、確実に彼女に届くような告白。
 
 「……………はい、宜しくお願いします。」
 
 崇子は両手で早雲の右手を包み込む。
 早雲が見たのは今迄で最高の崇子の笑顔だった。
 夜風が崇子の髪を靡かせ、はっきりと彼女の顔を分からせてくれる。
 顔を赤くした早雲は目を逸らすほど、崇子は笑顔は可愛かった。
 
 
 時間は流れ、二人が付き合い始めてから1ヶ月。
 試合場の前に1人の選手が控えている。
 青畳に足を擦り付け、次に行われる自分の試合を待っていた。
 「これより、新人戦、軽中量級の決勝戦を行います。
  赤、星影学園、栗本早雲選手。」 
 「はいっ!!」
 背中から仲間達の声援が聞こえる。
 「頑張って、早雲君。」
 その中には既に個人戦の優勝を決め応援に駆けつけた崇子の声もあった。
 その声援に後押しされるように早雲は試合場に入っていく。
 あの後、2人が交わした約束。
 
 お互いに新人戦で優勝する。
 
 崇子は既にその約束を果たしている。
 こんどは自分の番だ。
 2人が始めて出会ったのは中学の時の新人戦。今も変わらず柔道を続けている。
 変わったのは2人の関係だ。
 あの時、2人は名前しか知らなかった。
 今は少しだけお互いの事が分かっている。
 これから、もっと多くの事が分かるだろう。
 だが、それは、まだ先の話。
 
 「始めーーー!!」
 「オッシャーーーーー!!」
 出会った頃と変わらない早雲の声が会場に響き渡った。



〜 Fin 〜




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